東京国際空港(羽田空港)
1931年(昭和6年)8月に「羽田飛行場」として開港以来、日本最大かつ東京、首都圏を代表する空港です。
2010年10月には、新国際線旅客ターミナルがオープン。都心からアクセスも良いため旅行する方のご利用だけではなく、ちょっとしたお出かけで空港ならではの空弁やスイーツを食するのも楽しみのひとつ。展望デッキで離発着の飛行機を眺めながら食しむことができます。

穴守稲荷神社
当ホテルから徒歩3分ほどのところに位置する稲荷神社。農業繁盛、延命長寿、商売繁盛、無病息災の神力がある。もともとは羽田空港内 にあったが、戦後空港の拡張とともに現在の場所に移りました。
天保のはじめ頃、羽田空港あたりは、暴風や津波のたびに堤防が決壊して、被害を受けた。そこで、地元の有力者、鈴木弥五右衛門が堤防の上に社を祀ったところ、被害を最小に食い止めることができたという。また、堤防にできた決壊に、狐が飛び込んで被害を防いでくれたという言い伝えもあって、この稲荷神社には 狐が多く祀られている。様々な当たり運や航空安全を祈願する人々も多いのです。
新年は近辺の6つの稲荷神社と玉川弁財天をめぐる「七福神(稲荷)めぐり」に参加したい。8月下旬の「献灯祭」という祭りが有名。350個の行灯がズラリと参道にともされ、幻想的な風情を見せてくれます。

羽田大鳥居
もともと現在の羽田空港にあった「穴守稲荷神社」の鳥居。戦後、米軍が取り壊そうとすると事故が続き、移設されそのまま残されています。 場所は、海老取川にかかっている弁天橋のたもと。京浜急行空港線、東京モノレール「天空橋」から徒歩3分。

羽田神社
鎌倉時代に羽田浦の水軍で領主だった行方与次郎(なめかたよじろう)が、午頭(ごず)天王を祀ったのが始まり。隣の自性院の境内にあった午頭天王社が、のちに発展して羽田神社になりました。
毎年7月最終土日に開催される「例大祭」は、約3万人の人で賑わう。この地は、漁師町だったため、みこしは荒波を彷彿させる豪快な担ぎ方。 これは「ヨコタ」と呼ばれ、観客も担ぎ手も大いに興奮します。

蒲田の黒湯
穴守稲荷駅から、京浜急行で3駅。蒲田には、気軽に楽しめる日帰り温泉が集まっています。大田区の温泉は「黒湯」という植物性の成分を多く含んだ黒いお湯。 美肌や疲労回復の効能があります。 ほとんどが銭湯なので、安くリラックスすることができます。旅や仕事の疲れを癒してはいかが?

蒲田の餃子
同じく蒲田は、「餃子の聖地」と呼ばれているほど餃子が有名。中華料理店や餃子専門店がひしめきあっており、名物は「羽付き餃子」。黒湯で疲れを癒した後は、冷たいビールを流し込みながら、パリパリジューシーな餃子をハフハフいただきたいものです。

横浜中華街
横浜港が1859年7月1日に開港(安政の開国)し、外国人居留地が造成されるまで、横浜中華街は、横浜新田という田んぼでした。外国人居留地の造成が進む中、横浜新田だけは田んぼの畦道がそのまま残ったため、やや曲がった形で区画が出来上がりました。それが東西南北の包囲に即して完成したため、風水を重んじる中国人たちが住み始めたのは必然だったのかもしれません。それが中華街へと発展しました。
横浜中華街には「牌楼」(パイロウ)と呼ばれる門が10基あります。特に中華街の東南西北にある4つの門に各方位を司る神獣(東の青竜・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)と色(東は緑(青)、南は朱、西は白、北は黒(玄))がデザインされています。

山下公園
昭和5年3月に山下公園は開園しました。大正14年から4年の年月をかけ、関東大震災復興事業として瓦礫などを埋立て、良質な土で覆土して造成され、公園の基本的な形が完成しました。当時、現在の沈床花壇は船溜まりで、現在も氷川丸の横の小さな橋がなごりをとどめています。
戦後、公園は米軍に接収されましたが、昭和29年に段階的に解除され、昭和36年に再整備が完了、ほぼいまの公園になりました。
園内には、サンディエゴ市から寄贈された「水の守護神」、童謡にもある「赤い靴はいてた 女の子像」、「かもめの水兵さんの歌碑」など数多くの記念碑があります。
横浜観光の定番です。

ラゾーナ川崎
JR川崎駅西口に直結。ファッションやレストラン、家電量販店はもちろん「食・音楽・旅」をテーマにした店など約300店舗からなる大型商業施設。2Fルーファ広場では多彩な音楽イベントなども開催しています。(川崎市観光協会)

マリンタワー
横浜港の開港100年記念行事の一つとして横浜海洋文化センターの建設計画により建てられた展望塔、マリンタワーは横浜になっています。実際には灯台としての機能も持っていますが、いまは廃止されています。展望台までの高さは100m(全高106m)。晴れた日には富士山や房総半島も一望でき、夜には横浜の夜景が一望できます。

赤レンガ倉庫
赤レンガパーク内の赤レンガ倉庫は、日本で最初に開港した3つの港の内の1つである横浜港の付属設備で、正式名称は「新港埠頭保税倉庫」。元々は税関施設でしたが第二次世界大戦後、コンテナ化した事や取引量の減少により税関施設としての役目を終え、その後、横浜市が取得・再開発し、同時に山下臨港線プロムナードを建設しました。
その後、2002年4月12日に商業施設「赤レンガパーク」を開業させました。
赤レンガパークには1号館・2号館と二つの倉庫があり、1号館は2号館に比べてやや小さく、かつての趣きを残しています。2号館はレストランや雑貨屋など の商業施設が入り、多くの人でにぎわいを見せています。

みなとみらい
みなとみらい21地区は、都市景観100選受賞地区。 横浜都心部を一体化させる「都心部強化事業」のウォーターフロント都市再開発として建設された街です。 1980年当初、三菱重工造船所、国鉄高島線の操作場、東横浜駅高島埠頭があり、1983年着工、その後に横浜ベイブリッジ・横浜ランドマークタワー・ク イーンズスクエア横浜(複合商業施設)等が完成しました。 2004年にみなとみらい21線が開通し、観光、ショッピング、ビジネスと様々なシーンで人が集まる場所になっています。 横浜国際女子駅伝、横浜国際花火大会、横濱ハーバーライトファンタジーのクリスマスツリーやイルミネーションなどのイベントも多く行われています。

銀座
銀座の名は江戸時代、ここに幕府の銀貨鋳造所(銀座)が置かれたのに由来します。
今日のような繁栄を示したのは明治以降のことで、ガス灯、柳並木、乗合馬車が文明開化の先端を切り、やがて、カフェやバー、高級店の建ち並ぶ日本一の繁華街へと発展しました。戦後の復活も早く、デパートが次々に進出。俗に銀座八丁といわれ、世界に名だたるメインストリートとなりました。中央通りと晴海通りが交わる銀座四丁目交差点は、銀座の中心地。和光と銀座三越が向かい合う景色は、銀座を象徴するシーンとしてさまざまな映像などに登場します。
時計塔のある建物は銀座和光。和光の前身は明治時代に創業された服部時計店(現・セイコーホールディングス株式会社)です。

築地
地名の通り、築地は海を埋め立てて造られた土地です。明暦の大火後の復興計画で開発されました。1923年(大正12年)関東大震災では東京から江戸の残滓(ざんし)を消し去ったといわれています。震災後の復興計画で築地界隈も変貌をとげ、区画整理による町名地番改正が混乱をうみ、晴海通りの開通で町が分断され、築地からはかつての洋風の町のイメージがうすらいでいきました。何よりも震災で焼失した日本橋魚河岸が移転してきたことがこの町を大きく変えました。海軍ヶ原とよばれた築地海軍技術研究所用地に建てられた東京都中央卸売市場築地本場は、魚河岸を起源とする水産物部と京橋の大根河岸(だいこがし)を移した青果部からなります。正式には1935年(昭和10年)の開業ですが、それまで10年あまり、業者収容に関するトラブルで産みの苦しみに似た期間を過ごしました。今では、高層ビル群と古き町並みが共存する風景を築地にみることができます。歴史をしのばせる痕跡があり、ふりかえれば築地はつねに新しいものが生まれ、その歴史を風景に刻みこんできた町であったことを認識することができます。
築地場外市場

歌舞伎座
明治時代に誕生し、第四期歌舞伎座の瓦屋根、唐破風、欄干等の特徴的な意匠を踏襲した第五期歌舞伎座は、 従来通りの存在感ある和風意匠の趣とすることにより、歴史と景観の継承を図りました。 同時にバリアフリー対応や耐震性の向上、緑化をはじめとする環境対策など様々な機能を兼ね備え、 背景には、日本建築の捻子連子格子をモチーフとした品位あるデザインのオフィスタワーが建ち、銀座の街並みと調和する端正な建物となりました。 伝統と創造が融合した、新しい時代に相応しい劇場です。

銀座並木通り
文明開化の波は中央区域の街々を限りなく変貌させていきました。まず、築地が洋館建ち並ぶ静かでエキゾチックな外人居留地へ。次いで、銀座がハイカラで華やかなわが国一の商業地となっていきました。 今日のような銀座の繁栄が始まったのは明治以降のことです。明治5年の鉄道開通に伴い、新橋~浅草間に乗合馬車が走り、同7年末ガス灯が出現、15年には 鉄道馬車が、36年には電車が走り始めました。洋風の品物を扱う大商店が開店し、日本橋と並んでショッピング街となったのは明治20年頃です。既に銀座の並木もおなじみになっていました。新聞社などマスコミ機能も集中し、銀座はまさに時代の先端をいく街となりました。英人ウォートルスの指導で造られた煉瓦街は当初こそ湿気となじみのなさで不評でしたが、ひとたび定着してしまえば、それもまたハイカラな銀座の名物となりました。

日本橋
銀座をはじめ日本一の繁華街として知られているこの街々も、天正18年(1590)徳川家康が江戸へ入城した頃はほとんどが葦の生えた潮の浜でした。まず江戸城と外堀内の整備が行われ、慶長8年(1603)江戸幕府開幕とともに江戸の町割が始まりました。神田山(駿河台)の土を掘りくずして豊島の洲崎が埋め立てられ、浜町の辺りから南新橋に至る隅田川に沿った一帯ができあがっていきました。日本橋、京橋などの町人地は慶長10年頃には完成したようです。なお、大江戸造成にかかる膨大な労働力は、日本全国の諸大名がお手伝い普請を命ぜられて供出したといいます。日本橋は平川が東へ延ばされて現日本橋川となったところに架けられた橋で、橋名の由来については『御府内備考』に「この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名ありといふ」と記されています。慶長9年(1604)五街道の制ができた時、日本橋を起点としてすべての道路を発達させようとした幕府の理念が日本橋の名になったものと思われます。一方、京橋が架けられたのもほぼ同じ時期で、この道筋は東海道の出発点、即ち大江戸のメインストリートでした。京橋の欄干には日本橋、新橋と同じく宝珠が飾られ、その後長く江戸の玄関口として役割を果たしました。

雷門
正式名称は、風雷神門(ふうらいじんもん)。門に向い、右に風神、左に雷神が配されています。朱塗りの山門。門の中央には、重さ約700Kgの 提灯が吊り下げられており、浅草のランドマークになっています。現在の門は昭和35年、実業家松下幸之助が浅草観音に祈願し、病気平癒の報恩のため寄進したものです。 日本を象徴する風景として、外国人向けに日本を紹介するパンフレット、お土産のレリーフなどに採用されています。

スカイツリー
東京スカイツリーの主たる役割は地上デジタル放送送信です。2003年12月より関東地方の地上デジタル放送が開始されましたが、電波の送信に都心部の200m級超高層ビルの影響を受ける可能性が出てきたので600m級のタワーから送信する必要がありました。 600m級のタワーに移行すると、地上デジタル放送の送信高は現在の約2倍となります。年々増加する超高層ビルの影響を低減すると共に、2006 年4月に開始された携帯端末向けのデジタル放送サービス「ワンセグ」のエリア拡大も期待されています。 また、災害時には防災機能のタワーとしても期待されています。 高さ634mの東京スカイツリーは2011年11月17日ギネスワールドレコーズ社により世界一高いタワーとして認定されています。

浅草寺
江戸時代初めに徳川家康により幕府の祈願所と定められて以降、江戸文化の中心として大きく繁栄しました。都内最古の寺院の浅草寺は、「浅草観音」という名称で日本全国の人々に親しまれ、現在でも約3000万人/年もの参詣者で溢れる民衆信仰の中心地となっています。


上野恩賜公園
明治6年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に、 日本で初めて公園に指定されました。この場所は江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、 大正13年に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜」の名称が付きました。

西郷隆盛像
明治維新の指導者の西郷隆盛は、幕府征討軍参謀として幕臣の勝海舟との会談で、江戸城の無血開城を実現しました。作者は高村光雲で、明治31年12月18日に除幕式が行なわれました。
身長:370.1cm
胸囲:256.7cm
足 : 55.1cm
連れている犬の刻みは、後藤貞行で犬は「ツン」という名前です。

国立科学博物館
国立科学博物館は1877(明治10)年に創立された、日本で最も歴史のある博物館の一つで国立の唯一の総合科学博物館です。自然史および科学技術史研究に関する中核的研究機関として、また日本の主導的な博物館として活動しており、400万点を超える貴重なコレクションを保管しています。 調査研究の成果やコレクション等を活用して展示を行っています。

仲見世通り
仲見世は日本で最も古い商店街の一つです。徳川家康が江戸幕府を開いた後、江戸の人口が増加し、浅草寺への参拝客もより一層の賑わいとなりました。浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近隣住民に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられたのが仲見世の始まりです。江戸時代には、伝法院から仁王門寄りの店を役店(やくだな)、 20件の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)、玩具、菓子、みやげ品などを販売し、徐々に店も増え日本各地にある仲見世の中でも一番形の整った門前町へ発展しました。明治維新の政変では、寺社の所領が政府に没収され、 浅草寺境内も東京府管轄になりましたが、政府により、新しく東京に五つの公園を造り「公園法」を制定。近隣住民に対する特権が仲見世から取り上げられてしまいました。明治18年5月(1885)東京府は仲見世全店の取り払いを命じた後、煉瓦造りの洋風豊かな新店舗が同年12月に完成し、 近代仲見世が誕生しました。
